苦戦が予想されていたW杯初戦・コロンビア戦を2-1でモノにした日本。西野朗監督は監督交代から2カ月、初合宿から1カ月という短期間で、どのようにチームをまとめ上げたのか。その手法や信念をかつて西野監督の下でプレーした橋本英郎(東京V)が語った。
ブレない攻撃マインド
―02年〜11年にG大阪、12年の一時期は神戸で指揮を執っていた西野朗監督は橋本選手にとって縁深い人物だと思います。
「攻撃志向の監督、アクションの監督と見ています。もちろんそのチーム、その場にいる選手のタイプに合わせているとは思いますが、西野さんが就任する以前のG大阪は、リアクションサッカーでした。攻撃的(なサッカー)に変わったのは西野さんがきてからです。逆に言えば、西野さんが僕らにもう一度アクションスタイルを取り戻してくれたとも言えると思います。
ただ、戦術の傾向はないと思います。そこにいる人材、その選手たちの能力によって戦い方は変わっていく。いまある戦力を優先されますね」
―世間のイメージにある西野ガンバのパススタイルも、橋本選手、遠藤保仁選手、明神智和選手、二川孝広選手という中盤勢がいたから選択した戦い方だったわけですね。
「それもあるでしょうし、ああいうサッカーをさせてもらえたのも西野さんだったからとも言えます。逆に言えば、違う監督なら、例えばもっと守備意識を強くしたサッカーをした可能性もあると思います。とにかく、何かを強制された感覚はありません」
―システムで言えば、05年のリーグ初優勝時は宮本恒靖選手を中心とした3バックでしたが、翌年からは主に4バックを採用されています。
「そこに変化があったとか、毛色が違う戦い方だという意識はなかったですね。つまり、やろうとしていたことは、何も変わっていません。それは西野さんが就任当初からブレない部分でした。例えば02年は調子がよくて、03年は負けが込んできた時期もあったのですが、だからと言って、急に守備的になるような変化はありませんでした。システムや形がどうあれ、攻撃的なマインドは常にもっていました。これはマインドの問題です。[4-4-2]でも守備的に振る舞うことはできますし、[3-5-2]で攻撃的に戦うこともできます」
―のちの名古屋監督時代など、速攻型に近いスタイルの時代もありましたが、G大阪時代に縦に速く攻める指示をされたことなどはありましたか?
「そんなに言われなかったです。どんな相手にも自分たちのスタイルを変えることはなかったですし、攻撃と守備を分けた練習もしていませんでした。だから、実戦形式のトレーニング(紅白戦やミニゲーム)が多かった。もちろん攻撃のパターン練習もやりましたが、それもフィジカル要素の高いメニューで、フィジカルコーチが管理していました。紅白戦やゲーム形式(の練習)になると西野さんが出てくるのですが、そこでもものすごく細かい指示などはありません。プレーを止める回数も少なかったですね」
(BLOGOLA編集部)
2018/06/22 11:23