[インタビュー] その名を刻んだ男たち DF 17 土屋 征夫(東京23FC)人のために。ずっとそうやってきた(サッカー新聞エルゴラ金・土曜号) #東京23FC pic.twitter.com/fnTKI7pCFe
— サッカー新聞エルゴラッソ (@EG_spy) January 9, 2020
人のために。
ずっとそうやってきた
高校3年間、サッカーを辞めていたという異色の経歴をもち、
ブラジルでプロ生活をスタートさせた土屋征夫が、
昨季10月に引退を表明した。
V川崎(当時)で練習生からプロ契約を勝ち取ってから23年。
圧倒的な跳躍力や、90分間を戦い抜く精神力を前面に出して
45歳までプレーしたバウル(愛称)の、
紆余曲折のサッカー人生を振り返る。
自身のサッカー観、人生訓まで、話は多岐にわたった。
聞き手: 田中 直希 取材日: 12月18日(水)
あのころのヴェルディに
入って良かった
―今回は、Jリーグでの21年間を中心に、振り返っていただこうと思います。97年、4年間のブラジル留学から帰国して、V川崎(当時)の門をたたきます。
「練習生で入ったので、ただ食らいついて行くだけの最初の数カ月でした。あのチームに入ってよかったと、いまになって強く思います。サッカーのことはもちろん、例えば耐えることなんかも学びました。だって、自分より何段階も上のレベルの人たちばかりで、ベテランも若手も、全員がうまい。『なんだよ』なんて思う隙間もなかった。自分はただ練習して、うまくなるしかなかったんです。毎日、『すぐクビになるんだ』と思いながらプレーしていました。だから、本当にキツかったです。当時飯尾(一慶)とか平本(一樹)が高校1年生で、サテライトで一緒にトレーニングしていたんですよ。Jリーグに入れたのに、なんで高校生と土のグラウンドで練習しているんだろう、って思いながら…。
サテライトの中でもレベルは下のほうだったので、うまいところを見せようなんて思わなかったし、ただ自分のできることをやり続けた。そうしたら半年後にトップへ上げてくれたんです」
―まさに、這い上がったんですね…。
「カズさんがいて、テツさん(柱谷哲二)、北澤(豪)さん、ゾノさん(前園真聖)、(石川)康さん、高木(琢也)さん…。すごいメンツだった。会話なんかできないし、練習も別個。同じチームでプレーしながら『あの人たちと練習してみたいな』という感情もあったくらいで。そのときサテライトを指導していたのが、ケツさん(川勝良一氏)と森(栄次氏、浦和レディース監督)さん。ケツさんは技術の高い選手を好むタイプ。でも、トップに上がるときに『お前のその姿勢を見てきたから』って言ってもらえて、涙が出そうになりました。当時の自分にとっては本当に怖い人だったけれど(苦笑)、そんな優しい言葉を掛けてくれました」
―そこからトップの試合にも出場し始めます。
「でも、最初の年はリーグ戦4試合に出たくらい。2年目になっても同じ感じで、契約条件もあまり変わらず…。2年目のスタートもサテライトからで、トップの紅白戦にも出られない。そんなとき、コーチの森さんがずっと付き合ってくれた。真っ暗な中でも一緒にボールを蹴ってくれました。トップの練習に参加したときに、全体練習の2時間まったくプレーさせてもらえなくて、そのあとに森さんが付き合ってくれて練習してくれたことも。そういうコーチの存在がなかったら、本当にキツかったと思います。そりゃあいま、全体練習が終わったあとに若手が練習したいと言えば、付き合いますよね…」
―ではそのお二人のことは…。
「ケツさんと森さんは、“育ての親”です」
神戸は“CBバウル”を
育ててくれた
―そして神戸に移籍されます。
「神戸は、“バウル”というCBを育ててくれた場所。当時の監督だったケツさんを含めて、チームメイトや周りに育てられました。今でも、あのときの神戸の選手とは仲がいいです。吉村公示、海本慶治、長谷部(茂利)くん、布部(陽功)くん、北本(久仁衛)…。長谷部くんは3歳上なんだけど、すごく良くしてくれました。チームの一体感はすごかった。でも、それがないと(力が弱くて)勝てないチームでした。そんな中で6年間、自分をグイグイ伸ばしてくれました。実はあのころ、ビッグチームから移籍話もあったけれど、『神戸で代表選手になりたい』と断りました。それは本心でした」
―当時は財政状況も芳しくなかったと聞きます。
「だから一体感がないと戦えなかった。一丸となっていても勝てない試合もありました。でも、そうやって一つになることは本当に大事なこと。今でもその思いは変わりません。常に人のため、チームのために走る選手と一緒にやりたい。指導者としても、そういう選手を集めたいし、気持ちをもってやってほしい。その中で、自分の力を出してほしい。正解不正解ではなく、それが自分に合っていて、好きなんですよね。『アイツのために頑張ろう、走ろう』っていうことが」
―05年には、柏へ移籍されます。
「降格させてしまった、というのが一番の思いです…。柏は、サポーターの力がすごかった。あのスタンドとの距離が狭い日立台は、サポーターの声でガラッと試合の雰囲気が変わります。選手に対しても、悪いときは悪いと言ってもらえるし、良い時は本当に盛り上げてくれます。声援で震えましたからね。甲府時代、柏に試合をしに行ったときも練習場によくいたおばちゃんが声を掛けてくれたり。サポーターの印象が強いです」
―柏の元チームメイトとの“会”があるとか。
「毎年1月、『柏会』と言ってミョウ(明神智和)、薩さん(薩川了洋)やトレーナーとか、あのころ柏でプレーした選手と会ってサッカーして、ご飯を食べる会をやっています。本当に仲が良かった。当時は若くていい選手も多くて、(中澤)聡太と(永田)充とパンゾー(小林祐三)、ドゥー(近藤直也)、タニ(大谷秀和)、(矢野)貴章、チュンソン(李忠成)、タマ(玉田圭司)も……。だからこそ、J2に落としてしまったことが残念」
―06年は、大宮でプレーされました。
「大宮にも仲のいい選手がたくさんいました。波戸(康広)、サク(桜井直人)、(小林)慶行、藤本主税、サエ(佐伯直哉)、久永(辰徳)。楽しかったはずなんだけど…。そう、大宮近辺で家を探しているときに同い年の奥ちゃん(奥野誠一郎)にふじみ野市を紹介されて、そこに住みました。家族で暮らす人の多い地域で、当時子どもも小学校1年生だったから『すごくいいじゃん』と。選手もこの辺に住んでいるのかな、と思ったら…。誰もそのあたりに住んでいなかった(苦笑)。当時の志木グランドからすると、帰る方向がみんなと真逆! どこのチームに行っても、みんなとつるんでご飯を食べに行ってコミュニケーションをとるんですけどね。それができなったんです」
―サッカーのほうは…。
「守備的なサッカーだったけど、みんな個人戦術をもっている選手たち。個人で考えを共有しながらサッカーができて、面白かった。うまい選手が多かったので、まず後ろから見ていて面白いですよね。特に(小林)大悟は本当に見ていて面白い選手。走力はなくとも両足が使えて、止める蹴るの技術があるから、相手を外せる」
(BLOGOLA編集部)
2020/02/04 21:16