フッキのキックオフゴール
―そして07年、J2降格となってしまった古巣の東京V(当時はラモス瑠偉監督)に移籍します。
「いい選手が集まって、“J2銀河系”なんて言われて。開幕5戦で4勝1分といい出だしで、最初はシーズン全勝できるかも、みたいな感じだったのに、そのあと7連敗してしまったんです。何をやっても勝てない状況になった。ハットさん(服部年宏)、大野敏隆もいた。それでもうまくいかないのが、サッカーなのかもしれないですね。もちろん、監督も3バックにしてみたりいろいろしましたが…。相手はみんなヴェルディを敵視してやってくる。その中でも我慢して戦い、みんなでJ1復帰を果たすことができました。最後は感動でした。あの年、得点王になったフッキはすごかったけれど、最終節を前にして出場停止になってしまったんです。そこで出てきたのが自分にとって弟分の船越優蔵で、その試合でなんと2点を決めてしまったんですよ! ある意味、“持っている”選手だった」
―少し触れられましたが、フッキの活躍はすさまじかった覚えがあります。
「あの年の夏ごろ、フッキが西が丘で山形を相手に右サイドからとんでもないミドルシュートを入れたことがありました。相手の監督が樋口靖洋さんで、決められたあとにベンチの前で引っくり返っていましたからね(笑)。フッキはノッているときは、どこからでもシュートが入るんですよ。1回、水曜日にやった練習試合で大学生を相手に先制点を奪われたしまったことがあって。ヤバい、っていう雰囲気になったんですけど、フッキが『ボールを貸せ!』というふうに、キックオフされたボールをワンステップでシュートして、それがものすごい軌道とスピードで飛んで入った…。俺ら点をとられていたDFは『サンキュー、サンキュー。1-1!』とか言ってね(笑)」
ケツさんの給料を自分に…
―昇格するも1年で降格。スポンサーも離れてクラブの
消滅危機がありました。
「J2に落ちてしまったあと、J1のクラブからオファーをもらっていました。ヴェルディもつぶれてしまいそうなくらいだったから、オファーに応えようという気持ちにもなっていたんです。そこで聞いたのが、『監督になるケツさんが、自分の給料の額を俺などにスライドさせてくれた』と…。J1でプレーしたいけれどケツさんは本当に尊敬している存在だし、それでケツさんと一緒に昇格したいという気持ちになったんです。だから、ヴェルディに残りました。当時、クラブは本当にお金がなかった。それでも、うまい選手もいたし、まあふざけてもいたけれど(笑)、チームワークも良くて1年目はJ2で5位になりました。当時、J1昇格プレーオフの制度がないのもあって昇格できず…。よく覚えているのが、あのケツさんが08年の終わり、昇格の可能性がなくなった試合後のロッカーでみんなに対して『ここまでよく戦った』と褒めてくれたんです。褒めることなんてほとんどなかった、あのケツさんが! それが印象に残っています」
―11年、昇格を期待されましたが。
「ケツさんの2年目はね、CBでコンビを組んでいたカンペー(富澤清太郎)がケガしてしまったんです。それに、ボランチの(柴崎)晃誠が川崎Fに行ったのもあってケツさんのプランが崩れた。普通の人が見たら、晃誠の良さはあまり分からない。目立つプレーヤーでもないけれど、マジですごい選手。技術が高くてボールを取られないし、両足で蹴られて、ボールをつけたらなんとかしてくれた。そのボランチにはチビ(飯尾一慶)、(高橋)祥平、(和田)拓也、それにカンペーもコンバートされたりしたけれど、なかなかうまくいかなかった。あのときヴェルディにいたメンバー、いまもみんな活躍しているからすごいですよね。深津(康太)も(小林)祐希も、阿部(拓馬)、拓也、祥平、梶川(諒太)、シマ(島川俊郎)…」
―深津選手は、「いまでもバウルさんのような選手になりたい。近づけるようにやっている」と話していました。
「深津は、ヘディングではほとんど負けない。大丈夫?っていうくらいすごい勢いでヘディングしていく。俺も若いときはあんな感じだったかなって。そういうところは、似ているのかもしれませんね」
37歳にして号泣した日
―その川勝監督も、3年目の途中に退任されました。
「俺とチビ、あのときは泣きましたね。退任した日、ケツさんが帰ろうとして駐車場に向かうのを見つけて俺とチビで行って…。涙が止まりませんでした。それからグラウンドに戻って、みんなに話したんです。号泣しながら、『ケツさんが辞めた。俺は辞めたことはイヤだけど、辞めて良かったと思うヤツもいると思う。良かったと思っているヤツは、いまの3倍も4倍もやってくれ』って。あのとき37歳だったけど、ボロ泣き。それくらい、俺はケツさんのことが好きだったんです。怖いけれど、人間味がすごくある。初めて日本で指導してくれたのがケツさん。プロ生活を25年くらいやっている中で、10年くらいケツさんが関わっています。本当は優しいところ、グラウンドでは厳しいところ……いろいろな部分を知っています」
40歳での大ケガ
―東京Vから甲府に移籍したのが13年です。
「甲府には、本当に行って良かったと思っています。それまで大きなチームや都市ばかりでプレーしていました。甲府というチームで、初めて学ぶものもたくさんあった。練習場を転々としたこと、サポーターと距離が近くて地域の皆さんがヴァンフォーレのことが本当に好きなこと…。街に行けばよく話しかけられましたね」
―甲府では、大きなケガもありました。
「2カ月で3回、手術しました。あのとき、40歳になる年齢。そこで右の半月板と左の前十字という膝の大けがをしたのに、佐久間悟GMをはじめヴァンフォーレの人たちが『まだやろう』と言ってくれました。けがをしたのが2月中旬で、その年はプレーできない。そんな40歳になる俺を残そうとは、自分でも思いません。それでも、『一緒に復活しよう』と言ってくれました。本当にうれしかった。周りのみんなも協力してくれて。Jリーグ通算500試合出場もかかっていたから、40歳のおじさんがなんとかリハビリを頑張りました(笑)」
―負傷したのが14年、そして15年に復活します。
「あの時、ヴァンフォーレの皆さんが協力してくれたおかげで、そのあと5年も楽しいサッカーを続けることができたんです。感謝しかありませんよ」
初めてケガ以外で
試合に出られない経験
―J1でのプレーも続きましたが、17年はリーグ戦に出られない日々が待っていました。
「43歳になる年だったけれど、試合に出たくてしょうがなかった。初めてケガ以外の理由で試合に出られなくなったんです。そのとき、自分はサッカーが好きなんだなと、あらためて思いました。試合に出ないからって、誰かに対して何を思うとかはありません。出ない選手は残るか、移籍するか。それは選手として当然の選択です。人と人は合う、合わないもあります。移籍して出ていく選手って、『なんだよ』って文句を言う場合もあります。監督の好み、などもあると思いますけど、間違いなく実力の部分もありますから」
(BLOGOLA編集部)
2020/02/04 21:16