絶対に移籍先は
自分で決めないといけない
―長くプレーできる選手は、自分に矢印が向いているとよく聞きます。周りのせいにしない。自分が何をしなければいけないかを常に考えている、と。
「それはすごく思いますね。よく移籍するときに相談されます。『どっちのクラブがいいですかね?』って。そこでいつも言うのは、『最後に決めるのは自分だよ』と。人に話を聞いてもらいたいだけなのに、『あの人に言われたからな…』ってのちのち話に出てきます。それって、卑怯。だから『そのクラブで知っていることは伝えるけれど、絶対に最後は自分で決めろよ』と言います。『代理人に言われたから行ったので』って、何回聞いた話か。代理人にもいろいろいますけど、絶対に進路は自分で決めないといけない」
―話が脱線しました。そして17年のシーズン途中、京都へと移籍しました。
「それまで相手としてプレーしてきた闘莉王と、京都で一緒にプレーすることになりました。監督は布部くん。闘莉王はFWでプレーしていて…、Jリーグ通算100点以上を決めているんですよね。DFなのに、本当にすごいこと。その100ゴールの日が、娘が生まれた日で。ゆりかごダンスをしてくれました。闘莉王とは今でも会います。たまに連絡が来て、『いまどこにいるの?東京にいるよ!』って。
―なぜ、行くクラブが京都だったのでしょう。
「実はその時に、羽中田昌さんが監督をしていた東京23FCに誘われていたんです。『カテゴリーとか関係ない。どこでもいいから試合がしたいです』と伝えたら、『来てくれるなら、とんでもないこと。本当に来てほしい』って。自分としては、行こうとしていました。そう考えているときに京都が話をくれたんです。羽中田さんに『実は京都から話があるんです』と電話したら、『それなら絶対に行ったほうがいい』って」
―シーズン途中に移籍したのは初めてでした。京都に期限付き移籍されます。
「俺は自分からコミュニケーションをとっていくタイプ。その部分が、まだまだだった部分はあります。結局、よく話したのはトゥー(闘莉王)とかビツ(石櫃洋祐)とか、セル(エスクデロ競飛王)ぐらいで。いつもなら若い選手とご飯を食べに行ったりしてコミュニケーションをとっていくんですが、4カ月だと難しかった」
―普段の練習から100%でやり続ける姿に感銘を受けるチームメイトは多いです。もちろん、京都でともにプレーした選手からも聞きました。
「でも、ダメなときもあります。自分は100%でやらないと気がすまないのに、年齢には勝てないときがありました。京都でプレーした17年、練習後に若手と1対1をやったんですけど、あればダメ…。週末の試合のときに疲れてしまって。そこからの悪循環もあったんです。ただ、やってしまうんですよね……(苦笑)」
初めての弱音。
東京23FCという選択
―京都との契約が終わったあと、関東リーグ1部所属の東京23FCに移籍されます。
「実はJ2、J3のクラブからも誘いがありました。6人目の子どもが生まれたあとで、嫁さんに相談したら『大丈夫、やりたいところまでやりなよ』ということで地方に行く気持ちになっていました。オフになり京都から帰ってきて、生まれて2週間くらいの赤ちゃんの世話を一緒にしていた時に…。長男もまだ大学に行っていなかったから、子どもが家に6人いる。2週間くらい家で過ごしていたときに嫁がつらそうにしていて、『本当に
大丈夫?』って問いかけたんです」
―大学生から乳児まで6人ものお子さんを育てるんで
すもんね…。
「はい。そうしたら、『無理。一人じゃ厳しい。近くにいてほしい』と。嫁は小学校のときの同級生。それまで、どこでプレーするときにも支えてくれましたが、初めてそう言われて。だから自分の中で、辞めるか、東京近くでプレーするかの2択になったんです。そこで(吉田)正樹(現東京23FC強化部長/東京V時代にチームメイト)が『ちょっと遠いですけど、どうですか? 僕毎日迎えに行きますんで』と言ってくれて、それで加入を決めました」
―東京23FCは、関東1部リーグ。初めて国内でJリーグ以外のチームに入ったことになります。
「甲府などよりも小さいクラブ。コンクリートのところで試合前のウォーミングアップをするとか、さすがに経験したくないこともやりました。みんな、サッカーのほかに仕事を抱えていて、練習後にダッシュでバックを抱えて『失礼します!』って言って練習場を出ていく。このクラブに入って良かったことは、視野が広がったことです。サッカーが好きで、こういう環境でプレーしている選手がいることを間近で見られた。朝7時から9時まで練習して、10時から19時くらいまで仕事して…。彼らは本当にすごい」
―ということは、何時起きなんですか?
「4時50分起きです。正樹なんて、4時20分とかに起きていますからね。一緒に東京の西から東の江戸川区まで通っています」
45歳、引退決意の理由
―2年間プレーされ、19年途中に引退を決意されました。その理由は。
「環境も大きく変わった中で、練習から100%でできなくなりました。周りの人は『いいっすよ。そこまでやらなくても』と言ってくれます。でも、自分の中で納得できないことが出てきました。うまい選手ではないから、そういう(全力でやり続ける)ことを考えてこれまでやってきた。でも、それができなくなってきたんです。(引退の)理由は、そこにあります」
―サッカー選手をやる上で一番大切にしてきたことが、できなくなったと。
「自分が何を長けているか、長けていないかをしっかり理解することが本当に大事なこと。大きな目標をもつこともいいとは思います。そこに行き着くために自分の考えをもっているのならばいいけれど、そうでないと…。自分が認めたくなくても、認めなくてはならないことはある。認めて、自分に吸収して、サッカーをやるのと、意地を張ってサッカーをするのとでは周りの反応も違うでしょう。自分のプライドが邪魔をすることはあると思います。でも自分は、うまくない。下手って言われたら『下手です』とはっきり言えます。だから、最初にヴェルディへ入ったことが良かった。到底、追い付くことができない選手ばかりでしたから。いくらブラジルで4年やっていても、帰ってきたら自分が一番下手。それを感じられるチームに行けたことがすごく良かったと思います」
―土屋さんの長所は、ボールを取り切るところ、最後の笛が鳴るまで戦えること、それにコミュニケーションをとれることだと思うのですが、それらはご自身で獲得していったものですか。
「ほかの選手に負けたくなかったのは、そういった部分です。ほかの人より長けていないことはあったけれど、目標に行き着くまでの考えはもっていました。哲さん(柱谷哲二)がボールを奪うプレーなどを見て、自分は吸収していった。それに、やはり自分が周りに負けたくないものというものもありました。最初の時点ではみんなに負けていた。そこから、周りを追い越していこうと考えていました。技術は敵わないけれど、そのぶん違う自分の長所を作るためにたくさん練習しました。森さんとヴェルディグランドにあった砂場で1対1をずっとやったあのころのことを、自分は苦に思っていなかった。どのレベルにあるかを分かって受け入れていたから、やるしかない、頑張るしかない、という気持ちになりました」
(BLOGOLA編集部)
2020/02/04 21:16