苦戦が予想されていたW杯初戦・コロンビア戦を2-1でモノにした日本。西野朗監督は監督交代から2カ月、初合宿から1カ月という短期間で、どのようにチームをまとめ上げたのか。その手法や信念を現役時代にとともにプレーし、GMとして西野監督を招聘した経験をもつ久米一正(清水GM)が語った。
鋭い観察力と緻密な計算
――現役時代は日立でチームメート、その後は強化部長やGMと指揮官という間柄でもありましたが、西野監督はどんな人間でしょうか。
「口下手ですね(笑)。親しみを込めてですよ。だから余計なことを細かく言わずに、一つ二つの言葉で伝わる。日立時代からチームメートとして一緒にプレーして、現役を引退してからの西野はユース代表やアトランタ五輪代表の監督を経験しました。私は柏の強化部に入って、別々の道をいきましたが、その後柏で再会するわけです」
――柏の指揮官に招聘しようとしたきっかけは何でしたか?
「96年にアトランタ五輪が終わり、2勝1敗と好成績を残しながらもグループステージを突破できませんでした。数字は悪くなかったですが、当時の協会の西野に対する評価はそれほど高くなかったんです。ブラジルに勝って、ハンガリーにも勝った。それなのに低評価はないのではないかと、私個人は思いました。
もともと、西野は日立(現・柏)に籍を置きながら協会に出向していたんです。協会の評価が低いのであれば、戻ってもらおうと思っていました。当時の柏はブラジル人のニカノール監督が指揮をとっていました。成績も安定していたので、そこに西野をヘッドコーチに据えることになりました。それが97年です。
あのころは、エジウソン(02年日韓W杯ブラジル代表メンバー)や、のちにローマで中田英寿とプレーしたアントニオ・カルロス(ザーゴ)、ジャメーリとブラジル代表経験のある選手たちがそろっていました。そのシーズンが終わって、ニカノール監督と契約交渉をした際に、条件面で話し合いが頓挫してしまいました。そこで西野に『ぜひ、柏で監督をやってほしい』とオファーを出したところ、彼もすぐに快諾してくれ、98年から監督に就任しました」
――当時から口数は多くなかったですか?
「多くはなかったですね。普段は静か。言葉が少ないぶん、選手からすればどこかミステリアスというか、どこをどう見られているか分からない緊張感につながるところがありました。たくさん話す人は何を考えているか分かりやすいですが、言葉の少ない人は少し読みづらい。それは監督という職業としては、プラスな面も僕はあると思いますね。
彼は計算していることと言葉が連動していないだけで、頭の中は緻密ですよ。細かく、本当によく選手を見ています。食事のときも誰と誰がよくコミュニケーションをとっているとか、体調からコンディション面もよく見抜いていました。そのあたりに繊細さが出ていると思います。
選手時代を思い出すと、だいたい食事会場では僕の前に座って西野はご飯を食べていました。まあ、のんびり食べるんですよ。じっくり、ゆっくり(笑)。それで何か特別なことを話すかと言えば、そうでもない。黙々と食べて、話したかと思えば、ボソッと一言。昔から余分なことは一切言わなかった。だからたまに何かいったときには、周りのみんなは耳を傾けたものですね」
(BLOGOLA編集部)
2018/06/23 07:00