スポーツメディア18社が協同する「DAZN Jリーグ推進委員会」の連動企画、
「THIS IS MY CLUB ‒ FOR RESTART WITH LOVE -⦆」。
エル・ゴラッソでの第2回は、鹿島。
在籍最長選手である曽ケ端準と、事業面を支え続けてきた鈴木秀樹取締役マーケティングダイレクターにインタビューを行った。
取材日・6月18日(曽ケ端選手)、19日(鈴木秀樹取締役)
取材・文:田中 滋
写真:J.LEAGUE
鹿島ユースから昇格したのが98年。小笠原満男、中田浩二、本山雅志ら“黄金世代”とともに鹿島の一時代を築いた。曽ケ端準は、今季でプロ23年目を迎える。今年8月には41歳になるGKは、元韓国代表GKクォン・スンテらとともに日々切磋琢磨しながら、試合への準備を変わらず進めている。地元・鹿嶋にできた“奇跡のクラブ”、鹿島を誰よりも愛する男がいま語った思いとは。
息子と一緒に1時間のサイクリング
――新型コロナウイルスの影響でクラブとして活動できない期間がありました。どのように過ごされていましたか?
「最初はチームから課されたメニューがあったので、それをやりながら過ごしていたんですが、それだけでは運動量が足りないので自転車を買って、近所を1時間くらいサイクリングするようになりました。自宅からクラブハウスの前までの道のりには、ちょうどいい坂道もあるので、息子と一緒に自転車を漕いでいました。最初は娘もいたのですが、1回で脱落しました(笑)。そこそこいいペースで自転車を漕いでいたのに、息子は黙々とついてきてくれました」
――18歳でプロになってから、これだけサッカーをやらない時間を経験するのは初めてだったのではないでしょうか?
「そうですね。ケガで離脱することはありましたけど、チームとしてもまったくゲームがないという状況は初めてでしたし、自粛が始まったころはいつ再開できるのかも決まらず、先が見えない状況でしたから、いままでにない経験でした」
――そうした中で5月15日からチームでのトレーニングが始まり、いまはハードなトレーニングを詰まれていると思います。中断が長かっただけに、いざ練習が始まったときの体の反応はいかがでしたか?
「一度シーズンが始まって、体もゲームができる状態になっていたので、自転車を漕いでいたのもそうですけど、なるべく運動量を落とさないように意識していました。この年齢になるとなおさら、一度休んでしまうと元に戻すのが大変なので、軽くでもいいからなるべく体を動かすようにしていました」
――フィジカル的な難しさはあったと思いますが、公式戦3連敗からのスタートだった鹿島にとって、まとまった練習時間が取れたことはプラスだったのではないでしょうか?
「そうですね。中断する前は公式戦も負けていますし、監督がやろうとしていることをゲームの中でうまく出せませんでした。意識を統一させながら積み重ねてきたことが、練習や練習試合の中でも徐々に出てくるようになってきました。残りの期間でその精度をもっと上げていければと思います。ここからシーズンが始まってしまうと全体で修正することもできなくなってしまうので、この期間を大事にしないといけないですし、ゲームが始まってからも試合をしながら精度を上げていかないといけないと思います」
まずは自分自身がやる、ということ
――GK陣は曽ケ端選手とクォン・スンテ選手のベテラン2人と、3年目の沖悠哉選手と1年目の山田大樹選手という若い二人という組み合わせになりました。4人で切磋琢磨しているのではないでしょうか?
「それはいままでと変わらないと思います。去年、川俣慎一郎がいたときもそうですし、今年になってヤマ(山田大樹)がプロになりましたけど、去年もヤマはトップの練習に参加していたので5人でやることも多かったですし、そこは変わらないです」
――若い二人は足下の技術もあってとても現代的なGKだと思います。いい刺激になっていますか?
「二人の特長もそうですけど、チームとしての特長もそういう感じ(GKもパスなどで攻撃に多く関与する)になっているので、僕やスンテ、それにGK陣に対して求められることが変わってくるのは当たり前だと思います。まずはGKとしてやるべきことがあった中で、さらに上乗せで求められる部分だと思っています」
――監督からもGK陣に注文があるのでしょうか?
「GKコーチの(佐藤)洋平さんを通して言われることもあります。全体練習の中でもそうですし、GK練習の中でも新しいことを取り入れながらやっています。ビルドアップにしても、GKだけが意識してもどうしようもないところなので、受け方だったり、ポジショニングのところだったりは、チームとして取り組んでいます」
――チーム最年長として、ピッチ内外ではどんなことを意識していますか?
「まずはピッチに立つということだと思います。練習を含めて『まず自分自身がやらないといけない』ということは常に思ってやっています。僕以外にも経験がある選手や、実績のある選手もいますので、そういう選手と話しながら、というところもあります」
――新加入の選手たちの反応はいかがですか?
「新人選手は物怖じせずにやっていますよ。ゲームの中では結果を求められますが、移籍で加入した選手たちは経験のある選手ばかりなので、まったく問題なく順応していると思います」
自分がチームを勝たせる、という意味
――ただ、公式戦では3連敗です。過密日程で試合が次々と迫ってくる中で勝つことが求められると思います。鹿島らしさを失わないために必要なことはなんでしょうか?
「例年以上の連戦が続きますので、難しさがあると思います。ただ、結果を出していくことで、自分たちがやっていることに自信を持つことができると思いますし、監督から求められていることをやるだけではなく、タイトルを獲るために勝ちにこだわってやらないといけないところもあると思います。今季の連戦は限られた人数でできる日程ではないので、みんなにチャンスがあると思いますし、総力戦で戦っていければと思います」
――曽ケ端選手がプロになったばかりのころは、この日程で戦っていたと思います。いま思うとよくできたな、と思いませんか?
「中2日、3日でJリーグとアジアクラブ選手権を戦っていく、という感じでしたね。アジアの大会だと中1日でやることもありました(苦笑)。あの時代と試合の強度は違うかもしれませんが、もしかしたら監督はある程度固定したメンバーでやるかもしれませんし、それでもみんなが出る準備をするのは当然だと思います。そこは監督が判断することなので、僕らはとにかくいつでも出られる準備をするだけです。選手は毎試合、毎試合、100%の状態で出られる準備をすることがすごく大事になってくると思いますし、先程言った総力戦とは少し矛盾するかもしれないですけど、『自分が全部の試合に出るんだ』というくらいの気概を持つ選手が数多くいないといけないと思います。『全部の試合で自分がチームを勝たせるんだ』というくらいの気持ちを持った選手がいないと、戦えないと思います」
元々僕はサポーターだった
――ではあらためて、曽ケ端選手にとって鹿島アントラーズとはどんな存在ですか?
「元々僕は、いちサポーターとしてスタートしました。地元にサッカークラブができて、スタンドで応援して、そのチームのユースに入って、そこからプロになってという、スタートのときには想像できない道を歩んできました。そのチームでここまでプレーできているのは幸せなことですし、このチームに対して誰よりも愛情を持っているつもりです」
――Jリーグ全体を見渡しても「ワン・クラブ・マン」である曽ケ端選手は貴重な存在となりました。同年代で同じクラブに長く在籍した選手も次々と引退する状況に寂しさを感じるのではないですか?
「同年代や僕よりも上の世代の選手が辞めることについては、すごく寂しさを感じます。それでもまだ僕よりも年齢の上の選手はいますし、そこには負けられない、という気持ちがあります」
――毎年、『いばらきサッカーフェスティバル』で水戸の本間幸司選手に挨拶している光景を見ると、心に温かいものが流れます。
「僕にとって本間さんは大きな存在です。中学1年の時に3年生だった本間さんを知ったのですが、『こんなすごい選手がいるんだ』と初めて衝撃を受けたのが本間さんでした。その本間さんがまだ現役でプレーされていることは、僕にとってすごく刺激になっています」
――いまアントラーズではふるさと納税を組み合わせたクラウドファンディングを実施しています。すでに多くの寄付が寄せられていますが、選手としてはどのように捉えていますか?
「僕たちも早く試合が再開することを待ち望んでいますし、サポーターの皆さんが思っている気持ちに応えないといけないと思います。そのためにみんなで精一杯準備をしているところです。また、鹿島が早く練習を再開できたのも僕らだけの努力ではなく、近くにいる茨城県の県民の方々が感染拡大を防ぐための生活をしてくれたおかげだと思っています。それは茨城や鹿嶋だけじゃなく、日本全国で同じことが言えるかもしれません。単純にサッカーに携わる人だけでなく、そういった方々の協力がないと僕たちはサッカーをすることもできなかったと思うので、多くの方の期待に応えられるようにしたいですね」
――再開したらどんな試合を見せたいですか?
「中断期間にやってきたことを出せるように、みんなで協力して戦っていきたいと思いますし、こういう状況でも試合ができるので見てくれる人の心を動かす試合をしたいと思います。それはアントラーズだけでなく、J1、J2、J3。サッカーに関わっているみんなで見せていけたらと思います」
曽ケ端 準(そがはた・ひとし)
1979年8月2日生まれ、40歳。茨城県出身。187cm/80kg。鹿島中→鹿島Yを経て、98年に鹿島へ加入。元日本代表。J1通算532試合出場。J1国際Aマッチ4試合出場。02年W杯、04年アテネ五輪(オーバーエイジとして)にメンバー入り。
(BLOGOLA編集部)
2020/07/03 08:34