――まず、出身はどちらなのですか?
「兵庫ですね。西宮市です。甲子園の近くで育ちました」
――でも、野球好きにはならなかった?
「確実に『キャプテン翼』のせいですね(笑)。1980年生まれなんですが、まさにブーム真っ盛りの時期で、まさにその影響でサッカーを始めました。きっと面白かったんでしょうね。誰に言われたわけでもなく、そのまま普通に続けていましたよ。そして小学校5年のとき、浦和に転校したんですよ。父が転勤族だったので」
――え、浦和ですか?
「そうです。小学校6年のときにJリーグが開幕するわけですが、もともと浦和はサッカー熱が高い地域じゃないですか。クラスの男子の3分の2くらいがサッカーをやっていたんじゃないかな。休み時間も放課後も、少年団に入っていない子も含めてみんなサッカーをやっていましたね。そして、中学校に入るとき、また兵庫に戻ってきました」
――Jリーグは開幕のころから観ていた?
「当時、プラチナチケットだったじゃないですか。普通にやっていると手に入らない。ところが、中学の友達の父親がパナソニックに勤務している人だったんですよ。その友達はサッカーにそれほど興味がなかったんですが、『お前、好きなんだろ』と言ってチケットを入手して回してくれたんですよ。それで万博に観に行ったりしていましたね。覚えているのはV川崎との試合ですね。カズさん、ラモスさん…。本当にメチャクチャきらびやかでしたね――。もう、本当にサッカーが好きになっていたんでしょうね。『週刊サッカーマガジン』は必ず買って全部読んでいましたし、テレビでやるサッカーも全部観ていたと思います」
――やるほうのサッカーはどうだったんですか?
「中学校もサッカー部でプレーしていました。でも、そのころから気付き始めていたんですよ。やるサッカーは好きなんです。でも、僕は当時のサッカー部のメンバーの『アイツのこういうプレーがいいから、4バックにしてアイツはトップ下にしたほうがええんちゃうか?』みたいなことばかりを考えている中学生だったんですよ(笑)。ポジションを奪われたときも、『確かにアイツのほうが機能するかもしれんな』みたいに客観的に突き放して考えちゃったりするタイプでした」
――変な中学生(笑)。
「最終的に右サイドバックのポジションに落ち着いたんですが、そのことにも抗わなかったというか、簡単に白旗を揚げていたというか。闘争心とか、そういうのが足りないタイプだったんでしょうね。中3の夏に負傷離脱して、戻って来たらポジションがなかったんですが(笑)、それも『まあ、そうやろな』みたいに受け入れていた(笑)。中高一貫校だったんですが、サッカー部は高校に上がるときに半分くらいはやめるんです。ポジションもなくなっていたし、その流れのままにやめてしまいました。でもまあ、体も大きかったので、高校に入ったらアメフト部に誘われまして、そちらに入りました」
――アメフト部!?
「そうなんですよ。高1の夏に入って、最終的にキッカーとランニングバックをやっていましたね。結構脚光を浴びる役割ですよ(笑)。アメフトは痛いし、キツイだろうなと思っていましたが、そう何回もやめるのは嫌だったんで『入るからには絶対に3年間やり通す』と心に決めて入りました。アメフトは楽しかったですよ。県大会は8チームしかなくて、関西学院が絶対的に強かったんです。どこよりも部員が多いし、アメフトって攻めるときは攻めのチーム、守るときは守りのチームという感じに切り替えながらやるんですよ。僕らは部員ギリギリなので常に同じメンバーですが、関西学院は高校生だけれど、それをちゃんとやってくるチームでした。でも、僕の決勝点でそこに勝って県大会で優勝しちゃったんですよ」
――意外な過去ですね。
「でもそうやって、サッカーから離れてみて、僕が本当にサッカーを好きだったんだということにあらためて気付いちゃったんですよ。だから『サッカーを観ながらアメフトをやる』というサイクルの高校生活になっていきましたね(笑)。周りは海外サッカーばかりというヤツが多かったですけれど、特にJリーグが好きでした。もう高校のときには『サッカーライターになる』って周りに言っていましたから」
――またまたご冗談を……。
「いや、本当ですって(笑)。クラスで1年間、体育でサッカーをやる年があったんですが、サッカー新聞というのを発行していたんですよ。そこでコラムを書かせてもらっていました。『フランスW杯、必勝の布陣はこれだ!』みたいなのを(笑)」
――アメフト部なのに(笑)。
「そして、ライターになるぞ!と意気込みながら大学に進むわけですが……」
後編はこちら
(EL GOLAZO 川端暁彦)
2013/05/15 14:44