――ライターになるぞ!と誓った高校生・小田は…
「勇んで大学へ行きました。大学では社会学部でジャーナリズムを専攻しています。文章についても勉強しましたね。でも、就職活動は全然ダメでしたね。新聞社も出版社も、軒並み落ちています。それで結局、TVの制作会社に入ることになったんです。学生時代に朝日放送さんでアルバイトをさせてもらっていたのですが、その縁で『ウチを受けてみないか?』と言っていただき、最終的に試験を受けて入りました」
――就職はTV業界だったのか。
「ライターになりたかったはずなのに(笑)。その会社ではADをやっていました。バラエティー番組とかいろいろやっていましたよ。『お前、この業界に向いてへん』とか、先輩方にボロクソに叩かれていました(笑)。すごく貴重な経験をさせてもらっていたと思います。でもADって本当に時間がないんですよ。それでも僕はサッカーだけは欠かさず観ていたんですが、そうもいかなくなったのが2006年の夏ですね」
――まさか…
「はい、ドイツW杯です。もともとずっと悩んでいたんです。本当に映像が自分のやりたいことなのかな、と。制作会社の仕事でも、僕が楽しかったのは書く仕事だったんです。トーク番組の打ち合わせで、出演者にディレクターがいろいろ話すところに同席させてもらい、書記をするという仕事があるんです。そこで話された内容を、ちょっと面白おかしく起こすんです。それを元に今度は放送作家さんが台本を作るので、原案みたいな仕事です。その文章にする仕事がもうメチャクチャ面白いんですよ(笑)。こういう書く仕事がもっとやりたいな、と。それをずっと引き摺りながら、ドイツW杯を迎えて、深夜や早朝に試合を観ていて、『もっとサッカーが観たい』『もっとサッカーについて書きたい』という思いが膨れ上がり、辞めてしまいました」
――辞めちまったのか。仕事のあてはあったの?
「皆無でした(笑)。すぐにサッカー専門誌に履歴書を送りましたが、『そもそも募集していません』や『編集経験のない方は要りません』といった感じでした(笑)。それが26歳のときですね」
――つまり路頭に迷った。
「そういうことです(笑)。それからはバイト生活でしたね。コンサートの運営から市議会議員の手伝いまでいろいろ手広くやりました。そして夜な夜なサッカーを観て、週末はスタジアムに通う。エルゴラを定期的に読むようになったのもそのころですね。下薗昌記さんの記事とか大好きでした。サッカーダイジェストだと川原崇さんが好きでした」
――僕も川原さんの育成年代の記事が好きだったよ。
「熱いし、面白かったですよね。でも、ダイジェストでもエルゴラでも、読ませてもらいながら『俺ならもっといい記事が書ける』とかそんな馬鹿なことも思っていました」
――そういう「馬鹿」は大事だと思うけれどね。
「馬鹿でしたね…。スタジアムでは、できるだけ記者席に近い場所で観ないといけないと思って、わざわざ高いチケットを買ってメインスタンドで観て、誰も読まないその試合の記事を書いて、採点して、その上で各媒体を読んで自分のやつと摺り合わせて……(笑)。まず読まないで書くんです。そして、そのあとで各媒体を読む、という」
――一人記者修業だったのか。
「僕は、意思が弱いんだと思います。サッカーが好きなのにアメフト部に入り、書く仕事をしたかったはずなのに、映像の仕事に就いていた。好きな子に面と向かって『好きです!』と言えないタイプというか(笑)。そういう生活をしていたのが2年半ですかね。『ここで関係ない定職に就いたら、もう書く仕事をするチャンスはなくなる』とか考えていました。サッカーの時間を作るために辞めたんだから、『海外の試合を最低200試合はテレビで観て、Jリーグは50試合を現場で観て、これだけの数の本を読もう』。そんな数値目標を設定して過ごしていました。いまにして思えば、痛い20代ですよね(笑)」
――痛いね(笑)。でも僕も人のことを言えないのでそれ以上は言わない(笑)。そしてようやくエルゴラの話が出てくるわけだ。
「2008年の冬に記者募集の紙面告知を見付けて、すぐに迷わず応募しました。結局、一度はダメだったんですが、2009年の開幕直前に突然C大阪と徳島のお話をいただいて。熱意が伝わればとJリーグの各地の写真とか、イタリアとか海外に行ったときの写真とかを履歴書と同封していたんですよ。それがよかったみたいです。本当に突然の話だったのでメチャクチャ驚きました。ただ、不安はありましたけれど、やってやるぞという気持ちのほうが大きかったですね。どちらのクラブでも本当に温かく迎えていただきましたし、当時はC大阪もJ2で注目度も扱いも小さくて、それも幸運だったのかもしれません。練習取材の記者が僕しかいないなんて日も普通にありましたから。香川真司を独占取材とか、いまにして思えばすごいことをさせてもらっていましたね」
――偶然めぐってきたチャンスをつかんだわけだ。
「僕はストレートに記者になれていないわけですが、サッカー選手もそういう紆余曲折を経る選手は多いですよね。あのバイトをしながらサッカーを追い掛けていた日々がいまの僕の糧なり財産なりになっている部分は絶対にあります。僕の好きなサッカー本に『中澤佑二 不屈』(佐藤岳・著、文藝春秋)があるんですが、『10年願いを持てれば、かなう』という感じの記述があります。僕が高校3年生で『ライターになる』と言ってから、ちょうど10年でエルゴラと出会えました。本当に幸運だったと思いますし、いまこうやって書かせてもらっていることに感謝しています。僕は記者として試合に入りたくてもずっと入れなかったからこそ、あそこに入って選手の話を聞ける現在の立場が、いかに恵まれたものなのか分かっているつもりです。だからこそ、読んでくれる読者のために『記者として入らせてもらっているからこそ出せるもの』を出していこうと常に思っています」
――ありがとう。僕らのほうこそ小田くんと出会えて幸運だった。
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(EL GOLAZO 川端暁彦)
2013/05/17 13:30