――田中さん、生まれはどちらですか?
「生まれは東京都多摩市です。途中で日野市に引っ越しました」
――サッカーとの出会いは?
「杉野学園というアパレル系の学校があるのですが、日野市の引っ越した先の幼稚園がそこの系列でした。いまも強いのかな? 当時は結構盛んで、みんながサッカーをやっていたんですよ。だから、『俺は絶対にサッカーなんてやるもんか』と」
――ええっ?(笑)
「みんなもうずっとやっているから、うまいんですよ。田中滋少年にしてみると、あとから始めるのはしんどかったのでしょう。でも兄貴はサッカーをしていて、原体験はトヨタカップですね。ジーコが来た1981年大会。国立。まだ小さかったので試合内容とかは分かっていないですよ。でも、鮮烈だったんでしょう。ジーコがアイドルで、1986年のメキシコW杯は自然とブラジルを応援していました。そのころになると、記憶も鮮明です。絶対にブラジルが優勝すると信じていたのに、ジーコがPKを失敗して……。懐かしい。それが小学生のころかな」
――Jリーグ開幕時は何をしていたんですか。
「高校生ですね。当時、全試合を時間差で放送していたじゃないですか。それを全部観ていました。で、出てきたわけですよ」
――あ、ジーコか。
「そうです、そうです。それで鹿島が僕の中で気になる存在になっていきましたね。でもサポーターというわけじゃないですよ。いろいろなチームの試合を観に行っていましたし、逆に鹿島は学生にはなかなか遠くてほとんど行っていないですね」
――当時からサッカーライターになりたいとかいう気持ちは…?
「ありません」
――では何を目指していました?
「いや、それもないですね(笑)。時の流れに身を任せていたというのかな……」
――なんかカッコ良く言おうとしていませんか?(笑)
「そうですね(笑)。お恥ずかしい話ですが、何も考えていない若造でしたね。だから浪人もしたし、留年もしたのでしょう。大学ではラクロスをしていた記憶しかないですし(笑)」
――ラクロス部だったんですよね。
「はい。真面目にノートをとった覚えがほとんどないですし、酷いものですよね。どうしようもない学生だったと思います」
――就職とかはどうしたんですか?
「まあ、何も考えていないですよね。……いや、そもそも、どうしたらいいのか分からなかったんでしょうね。“ショーライ”とか一度も真面目に考えたことがなかったんですよ。就職活動というヤツが目の前に来るその瞬間まで。来て始めて『あれ、俺は何になりたいんだろう。これからどうするんだろう』と」
――とりあえず受けてみたりは?
「しましたよ。本当に手当たり次第という感じでしたね。でも、そんな学生を採りたい企業があると思いますか? あるわけないんですよ。どこも落ちましたね。就職活動の文化って、本当に独特じゃないですか。自己肯定力を問われるというか…。僕はそれが得られず、迷走してしまいました。結局、最終的な選択は留年でした」
――そして翌年リトライですか。
「そうですね。でも、やっぱり社会のこととか、何も見えていなかったと思います。自分のことを何となく『筋道を立てて物事を論理的に考えるのが好きなヤツ』だとは思っていたのですが、それが社会に出てどういう仕事をするのがいいのかとか想像もできていませんでした。2年目もいろいろ受けて、マスコミ関連も受けましたね。でも最終的に就職したのは、システムエンジニアの仕事でした」
――え、SEだったんですか? 初耳ですよ。
「言ってなかったですからね(笑)」
――あれ、大学の学部は確か……?
「文学部哲学科。まあ、この一事をとっても何も分かっていないヤツだったことが分かりますね(笑)」
――つまりシステムエンジニアとしての基礎的な素養や知識が何もない状態での就職だったわけですね。
「そうです。そういうことになりますよね。その会社は、ある大手保険会社の子会社で、そこから下りてくる仕事をこなす、そういう位置取りの会社でした。僕は3カ月の研修を受けて、すぐに出向することになりました。でも、何ができるって話ですよね。もちろん、そこでも僕は、何もできませんでした。だからこそ、そこが僕のスタートラインになったのだと思います。自分は何をやりたいのか。たぶん初めてそれを考えるようになったんです」
(EL GOLAZO 川端暁彦)
2013/05/23 11:30