――どのくらいいたのですか?
「その出向先に3年間いました。でも、本社に戻ることになったとき、ようやく『いやいや、これを続けていてどうするんだ』と思い始めた。ラクロス部のヘッドコーチをしていたとき、選手に向けてモチベーションを上げたり、考え方を提示するために、自分で文章を書いて渡していたんですよ。それがすごく面白くて、もっとこういうのがしたい、と。たぶん初めてそのときに自分の将来ってヤツを考え始めたのでしょうね(苦笑)。ちょうどそのとき『SPORTS Yeah!』(角川書店)で玉木正之さんがスポーツライター養成塾の募集をしていたんですよ。その夏季講座があって、それに参加しました」
――そのあとは?
「僕の出した東京Vに関するレポートが編集長の本郷陽一さんの目にとまっていたらしく、そこで『お前、これはどうやって書いたんだ?』と話しかけられたのを覚えています。もっとも、当時の僕は編集長とか知らなくて、ちょっと…(笑)。その夏季講座からメンバーが選抜されて、冬からは実践塾のような位置付けになりました。『面白い記事を書いてきたら、Yeah!に載せてやる』と。それで、会社を辞めたんです」
――辞めちゃった。
「そうですね。夏の段階で気持ちはもう固まっていたのだと思います。BJリーグ(バスケットボール)が開幕する前年(04年)だったのですが、大分がチーム専属のライターを探していて、そこに採用されることも決まりました。ライター1年目は、実践塾に通いながら、その大分の仕事があるといった形でしたね。実践塾ではバスケの企画を出して、自腹を切って米国へ取材に行ったりもしていましたよ」
――そうやって実績を作った。
「紙に書いた経験があると、やはり強いと思っていましたから。それを持っていろいろなところへ営業に回りました」
――結構、順調なスタートだったわけですね。
「いや、そうでもない(笑)。チームの事情から、BJの仕事がなくなったんです。そのあとはBJのときの縁からWebサイトの製作を手伝うような仕事をしていました。同じころ、J’sGOALにも僕を使ってくれませんかという売り込みをしていて、そうしたら『鹿島の担当が空くかも』というお話で、『え、鹿島? うれしい』みたいに思ったのですが、その話はそこから進まなかった(笑)。結局、最初は担当ライターさんの都合が悪いときに穴埋めとして起用してもらう感じでした」
――エルゴラの話はいつ来ました?
「2008年の開幕前に『鹿島の担当としてどうか』という話をもらいました。ただ、エルゴラの仕事は練習の取材にも行かなくてはいけないですから、Webの仕事を完全に辞めなければいけない。簡単には受けられなかったんです。でも、同じ年の4月下旬にJ’sGOALの鹿島担当が空くことになって、そちらの仕事を受けることになったんですよ。その夏にもう一度エルゴラから話をいただいて、それならば、サッカーライターとしての仕事に専念すべきではないかと考えてそちらも受けました。つまりWebの仕事は辞めました」
――では、鹿島番になってもう…
「もう6年目ですね。でも、決して長くはない。6年ごとき、ですよ。海外では20年、30年とチームを追い続けている書き手もいるのでしょうから。でも、『最初が鹿島で良かったな』とは思いますよ。選手たちのメンタルの強さにビックリしましたから。小笠原満男が『全部勝つんです』と言うのは、冗談めかしているときもありますけれど、でも冗談じゃないんです。結果が出ない時期に選手が言う言葉や示す態度もまったく違います。おかげで、負けたときの質問一つから考えるようになりましたし、自然と観る側としての自分の基準も上がりました。周りの記者も各紙のエース級がそろっていましたから勉強させてもらいましたし、それはモチベーションにもなりました」
――本(『常勝ファミリー・鹿島の流儀』/出版芸術社)も出しました。
「いや、あれは当時の全力を出しましたが、いまならもっと良い内容が書けるんじゃないかとも思います」
――田中先生の次回作にご期待下さい。
「いやいやいや(笑)。でも、たとえば柏とかもそうだと思うんです。強くなりつつあるチームに共通する気風というか、勝者のメンタリティーというか…。それを最初に痛感できたのは、書き手として幸せだったなと思います。だからと言って、いまの自分に満足はしていません。エルゴラの記事で言えば、最新情報を盛り込まなければ価値はありません。それは前提です。でも、情報が載っていればいいわけでもないじゃないですか。情報を並べれば規定の文字数は埋まりますが、それでは本当の価値がない。簡単に言えば、もっと面白い文章が書きたい。もっと読者の心に残る文章が書きたい。いまはまず、それだけですね」
(EL GOLAZO 川端暁彦)
2013/05/25 10:00