20日、高橋大輔選手の今季限りでの契約満了がクラブより発表されました。
そこには、本人のコメントと共に、“高橋選手は膝の手術後、リハビリを続けながら現役復帰を目指すことになり、セレッソ大阪としても全面的にサポートして行く予定です”という一文が添えられていました。
2011シーズン以降の2年間は、けがに苦しみ、復帰とリハビリを繰り返す姿を見て来ただけに、まずは「お疲れさまでした」という言葉をかけたいです。ただし、決して引退ではありませんので、再びピッチで走り回れる日々が来ることも願って止みません。
高橋選手は、一言で言えば、“人格者”でした。そして、前回のブロゴラに続く“伝説”シリーズで語るなら、高橋選手がC大阪で残した最大の伝説は、やはり、2011年のACLラウンド16・G大阪を相手に敵地で決めた決勝ゴールをおいて、他にはありません。
0-0で延長戦もちらつき始めた88分、右サイドを猛然と駆け上がると、ブラジル代表マイコン選手ばりの見事なミドルシュートをネットに突き刺しました。
「舞台が整っていたという感じが試合前からありました。不安や負ける可能性もあるという気持ちの中、今までのセレッソとガンバの歴史を振り返った時、今日が歴史を変えられる、すごくいい舞台だと自分でも思っていました。そういったことが、選手、クラブにとってプレッシャーを力に変えられた要因だと思います」(当時の試合後のコメントより)
C大阪の歴史を塗り替えたこのシーンは、クロスではなくシュートを選択した判断力、シュートそのものの弾道も素晴らしかったですが、何よりあの時間帯に全力でサイドを駆け上がることのできたスタミナと馬力こそが、高橋選手の魅力です。
以前、そのスタミナとフィジカルはどうやって鍛えたのか、聞いたことがありました。
すると高橋選手は、「親に感謝しないといけないですね」と切り出し、「スタミナは昔からありました。オヤジが厳しくて、小さい頃から走らされていたので。朝っぱらから、『走れー、走れー』って、うるさくて(苦笑)うるさいから、さっさとやろうって(笑)持久力というより忍耐力が付いたかな(笑)」と話していました。
また、「高校時代は、往復40キロくらいを自転車で通学していました。それもマウンテンバイクみたいなギアを変えられるやつじゃなくて、普通のチャリで(笑)一度、自転車こぎ過ぎて、尾骨を折りましたからね(笑)高校一年生の時、練習した後で、かなりきつかったんですけど、頑張って自転車で帰ったら、乗った瞬間にパキッっと尾骨が折れて。皆、爆笑ですよ。『尾骨が折れるまでチャリに乗っていたやつ』って(笑)」と、笑いも交えながら、(聞く方は軽々しく笑えませんが)学生時代の“秘話”も明かしてくれました。
“走る”理由としては、次のようにも語ってくれたこともあります。
「性格的なものもあるのかな。きつくても、さぼれないんですよね。守備でも、“もういいや”となるのが怖い。ゴール前に相手の選手がいると、ボールがこぼれて詰められる可能性もあるじゃないですか。きついけど、そういう所は戻らないといけないという危機感が常にあります。攻撃も一緒ですよね。走って、自分の前にこぼれてくれば、チャンスになるかもしれない。サイドのスペシャリストと言われる選手は他にも大勢いるので、自分はそれぐらいはやり切らないと試合に出られないですからね」
“真面目で頑張り屋”というキャラクターがにじみ出るコメントです。
もうひとつ、高橋選手を語るエピソードとして外せないのは、背番号”20“でしょう。C大阪に来た2010年の終わり、“20”の持つ重みをしみじみ話していました。
「このチームでの“20番”の重みは徐々に来ました。C大阪にとっての8番と20番は特別な番号ですよね。それはひしひしと感じます。スタジアムの応援幕でも、パッと“20”という数字が目に入っても、その下には今でも“西澤明訓”って書いてあったりしますから。俺じゃないですからね(苦笑)C大阪の20と言えば、点取り屋で、前線で体を張って、チームを背中で引っ張る感じじゃないですか。でも自分はサイドだしなーと思って。でもそれをプレッシャーに感じるのではなく、力に変えようと思っています」
3年間を経て、高橋選手の存在もC大阪サポーターに確かに刻まれました。
そして、このタイミングで、週末には天皇杯での“大阪ダービー”があります。21日の練習後、小菊昭雄コーチは、「大輔の気持ちもくんで戦うという部分もある」と話されました。
日々の戦いの中で、さまざまな歴史が積み重なって行きます。
(C大阪担当 小田尚史)
2012/12/22 11:13