20年前のちょうど今頃。32歳の城福浩は葛藤を抱えながらサッカーの現場に立っていた。28歳で現役を退き、「大企業で戦力になることが一番のビジョン」という日々を4年送った彼は、業務命令で富士通サッカー部のコーチを任されていた。
当時の富士通は福利厚生として活動をしていた時期で、城福コーチもまず「部を消滅させたくない」という思いだったという。コーチといえども「マネージャーも、スカウトも全部やる」という立場。水撒きやボール磨きも彼の仕事で、「合宿を1日減らしてボールを10個増やす」というようなやりくりも彼の担当だった。
城福は富士通がフロンターレとしてJ2に参入する直前に、再び部から離れる。再びサッカー界に戻らないという決意をして会津若松に向かい、工場を閉鎖するという過酷な業務に取り組んだ。ドゥンガ、レオナルドとなお華やかだったJに背を向け「丸いものを見るのも嫌」という日々だったという。
(甲府担当 大島和人)
2013/05/15 18:21