――仙台の監督として、シーズン残りに対しての目標は。
「正式発表された以上は下手な仕事はできないし、下手な試合はできない。勝って勝って勝ちまくって、そっちの仕事に移動していければと思います」
――サポーターに対して伝えたいことは。
「仙台で震災も経験して、被災地のチームとして希望の光になるんだと、そして(2011年の)4位、(2012年の)2位と躍進して、そこまでたどり着いていない状況というものは本当に心苦しいですけれども、残りの試合で何とか、光を放てればと思います。まだまだ復興までの時間は相当かかるなかで、自分は今シーズンに掲げた “Vision” というスローガンは、ゴールの見えない、強豪クラブに進んでいくためのスローガンだったわけですけれども…それを掲げて1年でチームを去るということに対しては、やはりベガルタのことを考えれば心残りがありますけれども、逆に言えば、東北の力をベガルタが示したときに、今度は自分が日本の力というものをアジアや世界に示すときが来たんだなと感じたら、そっちの仕事にぜひ行かしてくれと言いたいし、ぜひ理解をしてもらいたいと思います。仙台に対する想い、ユアテックスタジアム仙台での仕事には、本当にやり甲斐と張り合いがありました。そこで養ったものを、今度は五輪代表を通じて、日本のみなさんに表現していければと思います」
――仙台の監督として思い出に残っている試合は。
「やはり(2008年)J1・J2入れ替え戦のジュビロ戦と、震災後の(2011年J1第7節)川崎F戦と、復興元年(2012年)の開幕の鹿島戦…。もっとありますけれど、強いて挙げれば節目節目の試合が思い出になっています。実は、2010年のみちのくダービーで山形と宮城スタジアムで戦った試合も、自分の中では、リャン(・ヨンギ)が2点を取ったゲームでした。あれで負けていたらみちのくダービーで4連敗。あそこで負けていたら自分から辞めていたと思っていた。そういうことを乗り越えて、6年間やってこられました。本当に、最後のところで、ずいぶん選手たちやスタッフたちに助けてもらった6年間でした」
その後も長きに及んだ会見で手倉森監督はコーチ時代の2004年から仙台で培ってきたもの、監督に就任した2008年の外国籍選手を雇えないところからのスタートで日本代表をイメージした話などを語った。名物の駄洒落こそなかったものの、ところどころで冗談を交えつつ、これまでとこれからの話を熱弁。五輪の目標としてメダルが期待されていることへの理解を示しつつ、目標は日本サッカー協会の記者会見で語るものとした。
今後は自身も述べてきたように、仙台での残り時間で達成すべきもの、すなわちリーグ戦の残り6試合での巻き返しと、天皇杯での優勝に向けたトレーニングという仕事に再び集中していく。
(仙台担当 板垣晴朗)
2013/10/11 07:00