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[連載インタビュー・海を渡った志士のいま第5回] 「日本で過ごした10年間に本当に感謝している」(ルーカス)
タイトルへの渇望
――フランスでは苦労したようですが、ピッチ外で日本への適応はどうでしたか?
「フランス時代にはピッチ外でも適応の問題を抱えていた僕だけど、日本に関してはまったく何の問題もなかったね。妻もすぐに日本に慣れたし、日本の人たちは本当に親切だった。それにケリーやアマラオ(92年の東京ガス時代から03年までFC東京に所属、現・暁星国際高ヘッドコーチ)らもかなり手助けしてくれたんだ。僕は来日して2カ月で車の免許を取って自分で運転していたぐらいなんだから(笑)。ただ、日本語は最初『アリガトウ』と『オハヨウゴザイマス』しか知らなかったけどね」
――フランス時代は成功したとはご自身でも言えないようですね。
「フランス時代は僕のキャリアにおいて成功だったとは言えないね。君が言うように、僕は当時非常に高額な移籍金で迎え入れられた。ゴールを量産することを期待していたサポーターやクラブからの重圧はものすごかったし、当時21歳の僕はその重圧に耐え切れなかったんだ」
――初めての海外移籍となったレンヌでの経験は、Jリーグでのプレーにも生かせたのですか?
「そうだね。あの失敗があったからこそ、僕は日本に早く適応できたと思っているよ。さっきも言ったけど最初の半年間はまったくダメだった。でも『ああ、うまくいかない』とか『全然ダメだ』なんていうイラ立ちを、あえて持たないように心がけていた。フランス時代はそういう感情のコントロールがダメだったんだ。FC東京での最初のころは『焦るな』って自分に言い聞かせていたよ。フランスで学んだ教訓だね」
――FC東京で地位を確立していたあなたが、08年にG大阪への移籍を決断した理由を教えてください。
「難しい質問だね。隠さずに言うと、僕も家族もFC東京が大好きだったし、クラブにも完全に適応していた。サポーターやクラブの幹部とも揉めたことはなかったし、皆が僕のことを気に入ってくれていたと思う。でも、唯一問題を挙げるとしたら、僕はタイトルを獲ることに飢えていたんだ。とにかくチャンピオンになりたかった。確かにFC東京には良い選手がそろっていたよ。でもタイトルを獲るには何かが欠けていると感じたんだ。一方でガンバはタイトルを狙えるチームだったし、実際にACLとテンノウハイ(天皇杯)、パンパシフィックで優勝できた。3年間で4回の優勝を経験できた。迷ったけど、移籍を決断したのは正しかったと思うね」
――Jリーグでの10年間において08年から10年までのG大阪での3年間は最高の時期だったように見えます。
「あの3年は僕のプロのキャリアにおいて、恐らく最高の時期だったと言えるね。チームのスタイルも確立されていたし、誰かが移籍しても、攻撃的なスタイルはまったくブレなかった。僕も年齢的にピークだったし、すごく走ることもできた。ただ、再びFC東京に復帰して、昇格に貢献できたあのシーズン(11年)も印象に残っているよ」
――やはり一番思い出深いタイトルはACLですか?
「もちろんACLだね。いまやどのJリーグのクラブもACLを狙っているだろう? でも、最近はJリーグのクラブはグループステージを突破するのも難しくなっている中で、やはり僕らの優勝は際立っていると思うんだ。その後にはクラブW杯も戦うことができた」
――あなたはブラジルふうに言えば、決勝における「ノーメ・ド・ジョゴ(ポルトガル語で試合の名前。MOMの意)」でしたからね。
「そうだ(笑)。アウェイのアデレード戦のあとに、君がミックスゾーンで僕に話しかけてきたその言葉をいまでも忘れていないよ。決勝の2試合とも僕が先制点を決めることができて、計3得点を挙げられた。あのタイトルは僕のキャリアで最も重要なものさ」
――先ほどは、FC東京時代の印象深い選手を挙げてもらいましたが、G大阪では誰が印象に残っていますか? 多くのブラジル人選手は二川孝広選手の名を挙げますが。
「ヤット(遠藤保仁)とフタ(二川)だね。ボールタッチとクレバーさという点で、彼らは僕と同じスタイルを持つ選手だった。対戦相手として見ていたときから、その質の高さは知っていたけれど、日々チームメートとして過ごすようになって、この二人は『マジでうまいな』って。マチガイナイ(笑)」
――G大阪では西野監督によってMFとしても起用され、新境地を拓いた感がありましたね。
「ニシノさんとの出会いも大きかったね。FC東京時代は単なるFWだった僕にMFとしての適性を見いだしてくれたのがニシノさんだった。最初は『中盤なんて無理だよ』って思っていたけど、2列目から前に出るプレーは意外に僕に合っていた。それにニシノさんは僕に大きな信頼を置いてくれていたし、ほとんどの試合でフル出場させてもらったのもうれしかったね」
――日本での10年間はあなたのキャリアにおいてどんな意味を持っていますか?
「僕のプロキャリアにおいてすべてと言ってもいいぐらいだね。日本に来る前にはただFWとして点を取ることしか知らなかった僕は、プロ選手として日本で大きく成長できたと思うよ。パスを出したり、アシストをしたりすることも覚えたし、戦術的な理解度も高まった。守備も覚えたからね」
W杯を楽しんでいるよ
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(BLOGOLA編集部)
2014/06/29 19:49
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