ホーム最終戦を勝利で飾った愛媛でしたが、スタジアムには勝利による笑みに加えて、センチメンタルな空気も漂っていました。先週、“ベンさん”の愛称で親しまれた大木勉選手が今季限りで引退すると発表され、このホーム最終戦がニンスタでの最後の勇姿になったからです。
今季、大木選手はコンディションがうまく整わない時期などもあって、ベンチにも入れない苦しいシーズンを過ごしてきました。実はこの試合に向けての練習でも、木曜日までは別メニューで調整を続けており、ボールを使っての練習は、ほとんどできずにいました。コンディション的には、ようやく全力で走れるようになった程度。そんな中での今季初めてのベンチ入りでした。
しかし、ベンチ入りはしても、試合に出られる確約がある訳ではありません。コンディションが万全ではない大木選手が試合に出るには、複数点差でリードすることが望まれる状況でした。ただ、この日の愛媛イレブンには頼もしさがありました。一度は草津に追いつかれたものの、そこから一気に盛り返し、有田選手、石井選手の連続ゴールで大木選手をピッチに迎え入れる準備は整いました。
後半41分にスタジアム中の声援を背に受けて大木選手はピッチに登場。「夢の中にいるようなフワフワした感じだった」(大木選手)。たった7分間でしたが、最後のニンスタで夢見心地のプレー。見せ場は作れませんでしたが、スタジアムに駆けつけたサポーターにピッチを駆ける姿を見せただけでも大きな意味を持った7分間だったと思います。
試合後の引退セレモニーで大木選手は自身のぼくとつとしたスタイルを貫き、ひと言でサポーターに最後のメッセージを送ろうとしました。しかし、こみ上げてくる涙でたったのひと言のメッセージを口にすることも、ままなりません。「皆さんのおかげで素晴らしいサッカー人生を送ることができました。本当に…」と言ったところでしばらく言葉は詰まり、静まり返ったスタジアムに大木選手のすすり泣く音だけが広がりました。その静寂の間に、18シーズンに渡る現役生活での思い出がよみがえってきたのかもしれません。大木選手は誰もが認める技術とセンスを持ち合わせ、ピッチでそれを表現してきました。しかし、その反面、けがによって苦悩を味わう日々も多く、大木選手の現役生活は「けが」との戦いでもありました。大木選手は人前ではめったに感情を表に出すタイプではありませんが、それでも、とめどなくあふれてくる涙を流した理由は、栄光を味わうたびに大きな苦難を経験したこと。そして、そんな苦しいときでも多くの応援してくれる人がいたという事実があったからだと容易に想像できました。
試合翌日の練習後、大木選手に“少しは気持ち落ち着きました?”と問いかけると、「昨日(の試合)が終わったんで。すごくスッキリしました」と今までに見たことのないような、すがすがしい表情で応えてくれました。私はその表情を見てホッとした反面、大木選手はこれまでにとてつもない大きな物をずっと背負っていたんだなと痛感しました。
ワンタッチで状況を一転させるマエストロがピッチを去るのは寂しい限りですが、その素晴らしいプレーがサポーターたちの脳裏から離れることはないでしょう。
(愛媛担当 松本隆志)
2012/11/07 14:04