2022年10月26日発売 エル・ゴラッソ2673号にて、工藤壮人さんの追悼特集を組みました。その際、彼と親交の深かった関係者、選手に多くのコメント取材を行わせていただきました。紙面で伝え切れなかったぶんも含めて、ここに特別に公開させていただきます。
特集号のエルゴラプラスはこちら→https://elgolazo.jp/products/detail/876
あらためまして、ご協力いただきましたクラブ、関係者、選手の皆さま、本当にありがとうございました。
そして、どうか安らかに。
Photos:Atsushi Tokumaru
■吉田 達磨監督(甲府)10/24
いつも最後は工藤が決めてくれた
「工藤や同世代の彼らのことを、教え子という言い方をしたことはないんです。04年に彼らの担当になってから、これまでのサッカー指導者人生のすべてで一緒にいたという感覚でしょうか。そこに打算的な意味はなく、いい時も悪い時も、連絡を取り合っている関係でした。
工藤とは、彼が豪州に行く2日前に柏のコメダ珈琲でお茶をしました。なかなか伝わらないかもしれませんが、そういう関係です。指導者として、彼とまた一緒にやりたい思いがありました。だから、『J3で点をバンバン取って!』と伝えていたんです。実際にゴールしたら、『左足でも時々決めるよなぁ』なんて連絡をして。電話も、LINEもよくしました。
(病気で)寝たきりになっていた状態でも、天皇杯決勝を見てくれてLINEを送ってくれて。それに対して、『いつ退院するんだ?』と返して…。次の連絡が、奥さんからの『もう意識が戻ることはない』というものになりました。
工藤のお父さんやお母さんと電話でも話したんですが、とても気丈に振る舞っていて…。だから、そこからは気持ちを切り替えるフェーズに入っていました。奥さんとも連絡を取り合っていて、彼の状態を知っていましたが、(公表されていなかったために)取材などでなかなかそれを答えられない約1週間を過ごしました。
彼は元日本代表ですし、プライドもあるでしょう。それでも、プレーするチームを探していたとき(20年)、母校の柏日体高に行って練習を続けました。それができる男なんです。それが彼の価値と言えるかもしれません。その人間性は、親の教育があってのものだったと感じています。お父さんは、曲がったことは許さないという方です。
それに、本当にたくさんの友達がいて、そのすべての人を大切にする。だから、彼のもとにはたくさん連絡が入って大変だったでしょうし、家族もそうだったのではないかなと思います。
その中でも、自分やキタジ(北嶋秀朗)はね…。オレは、キタジよりも4年早く出会っただけで、そう変わりはないと思っています。彼らの代や、バラ(茨田陽生)、(川浪)吾郎、橋本拓門、それから仲間隼斗はちょっと特別な存在というか。全員が素晴らしいんですよね。ちょろちょろといろいろなことはしていたけど、芯は外さない。それが工藤でもある。
どんな言葉でも言い表せない気持ちになりましたし、泣くこともありました。まだ32歳ですからね…。でも、気丈に振る舞っていたご両親と話したときに、もう泣かないと決めました。そうやってお父さんと電話していたら、達磨さんの声を聞いていたらつらくなってきたと話されて…。
自分と工藤は、同じタイミングでレイソルから出ていったので、周りにはいろいろと言われたと思います。何も因果関係はなかったのに、です。それが申し訳なかった。
あのとき、酒井と工藤とは、解団式のあとに柏で3人で話しました。彼らが「どの場所でもいいっすよ」と言ってくれて、店で話したのを覚えています。
彼ら90年組のおかげで、指導者として自信をもつことができましたし、この自分の強烈なサッカー人生をつくってくれました。
必ず、大事なところで結果を残してくれた。それが工藤でした。○○の決定戦とか決勝とか、グループステージの最終節とか、いつも彼がゴールを決めてくれたんです。身体能力がすごく高いわけではないのに、大事なときに点を取る。いつも最後は彼でした」
■北嶋 秀朗ヘッドコーチ(大宮) 10/24
高め合えるライバル関係、それはこれからも変わらない
「(工藤壮人という人間はどんな存在でしたか?)僕とアイツはずっとライバル関係でやってきた。よいライバル関係、高め合えるライバル関係でいたので、これからもそれは変わらないと思います。
(心に残っている思い出は?)僕がレイソルを退団するときに、二人でいろいろな会話をした。僕の移籍は重いもので、その重い移籍の背景を知った上で工藤が9番を背負ってくれた。そして9番の価値を高めてくれた。『逆境になったときに9番は輝く』と、ずっと二人で言ってきた。『逆境になればなるほど自分にチャンスがある』と話して、それをアイツ自身も言ってくれていた。そういうふうに言いながら一緒にプレーできた時間が一番ですね。
ウチの息子たちにもサッカーを教えてくれたり、気にかけてくれたりした。家族で工藤をリスペクトしている。誰にも愛されるヤツ。オレにとって、工藤は近すぎて、深すぎて、“こういう人間です”と一言では言えないです。アイツが生きた証を、アイツを一番知っているオレが引き継いでいきたい。あのとき重かった9番をアイツが引き継いで背負って戦ってくれたので…。アイツの死は重いですけど、俺がアイツの思いを背負って、サッカーに生きていきたいと思います。
(もし、いま声をかけるとすれば?)よく頑張ったな、と。頭は相当痛かったらしいので、その中で最後まで戦い抜いて、いまがあると思う。またいつかオレがそっちに行ったときに、優勝争いをしようぜと伝えたいです。
またアイツと2トップ組んで、一緒に点を取ってエンブレムを叩いて一緒にサッカーをやりたいです」
■大谷 秀和(柏) 10/25
忘れずに進まないといけない
「厳しい状況だと聞いていたので、なんとか回復を願っていました。きっと、プレーと一緒で最後まで戦ってくれたと思います。まだ整理がつかないですけど、工藤もまだサッカーをしたかっただろうし、そういう思いは一緒にプレーした選手や関わった人たちがしっかり持って進んでいかないといけないと思います。
本当に苦しいときにゴールを取ってくれる選手。ストライカーですし、ギラギラしている工藤の姿が(印象に)残っています。でも、ピッチを離れれば本当にいいやつで気遣いもできて、とにかく豪快に笑っているというのが(印象に)残っています。
(工藤が)入院していたことは知りませんでした。本人が心配させないようにというのもあったかもしれないけど、宮崎がリリースで発表したので知ったので、本当に突然だった。(最後)実際に会ったのは(今シーズン前に)キャンプで練習試合があったとき。まだまだ元気でプレーしている姿を見ていたので、ただ驚きしかなかったです。
後輩ですけど、気を遣う部分だったり人への姿勢だったり、練習の態度だったり学ぶことが本当に多かった選手の一人。そういうのをいろんな人に伝えないといけないし、忘れずに進まないといけないと思います。
ストライカーとしてシュートやシュートに持って行く形にこだわりを持っていました。身体能力が高いわけでもないし、足が速いわけでもないし、背が高く強いわけでもない中であれだけゴールを奪えたというのはしっかり考えてプレーしていたということ。シュート練習するにしても、現実的にありそうな形を考えて布さん(布部陽功氏)とやっていたのは印象に残っています。
理論的なサッカーを(吉田)達磨さんから教わって学んできたと思いますし、チームのために走って戦ってくれる選手でした。頭は冷静に、相手を見ることができる賢い選手でした。プロ入りしてすぐは難しい状況だったと思いますけど、本人の努力とやり続けた結果で日本代表まで上り詰めたので、『そういう考えを持っている選手は伸びるんだ』ということを、身近で見ていて感じました。チャンスが来たら絶対につかむという強い意志を持っている選手だったと思います」
■酒井 宏樹(浦和)
思いはダイレクトに伝えられた
「正直、受け入れざるを得ない状況だったので、いつまで引きずっていても、それは工藤の本意ではないと思いました。自分たちにやれることは精一杯生きること、全力でプレーし続けることです。これまでよりも一層、人のぶんもプレーしないといけないという責任感を背負わせていただこうという、今は勝手な気持ちでいます。
病気であると聞いてから宮崎に行って、いろいろと聞いていました。あの1日でいっぱい涙しましたし、そこで覚悟はできていました。だから、実際発表されてからは、受け入れることに集中していました。
(18日はチームの)練習後でしたし、現実的な距離感ではなかったけど、行くという決断をしてよかったと思います。行っていなかったらずっと後悔していたと思うんです。奥さん、両親には迷惑をかけてしまいました。工藤と会話はできませんでしたが、思いはダイレクトに伝えられたと思います。
90年組の僕らの代は特に仲が良かったと思います。その中でも常に中心にいた人です。ふざけながらも、みんなを輪に入れていくようなタイプでした。
年末にある同窓会でも、その中でも何人かいる幹事をやってくれていたし、常にリーダーでした。
自分も、工藤のことを常に意識していました。ライバルではないんですけどね。それは工藤だけでなく、同期の選手みんなです。試合に出ているのか、メンバー入っているのか、常に気になっていましたし、工藤が行ったことでJ3の試合も見るようになったという側面もありました。それって、意識している証拠ですし、気になっているんだなと思うんですよね。
とにかく僕らはサッカー選手。そうして生きて、やってきました。今やれることは、ずっと寄り添うことではなく、良いサッカー選手であり続けること。それが工藤には一番の刺激だと思います。
工藤の奥さんと子どもに関しては、みんなで見守っていきたいです」
■武富 孝介(京都) 10/25
もう1回、会いたかった
「俺たちのいたユースを、中心で引っ張っていました。周りときさくに話すことができますし、みんなの中心にいることが多かったです。人間的にもナイスガイで、サッカーへの向き合い方も素晴らしい。どん欲にゴールを狙い続けるあの姿勢は、高校生くらいからずっと変わっていません。
直接聞いたわけではないですが、体調不良で休んでいると聞いていました。ICUに入ることになってからは、なんでもう少し早く会いに行けなかったか…、そんなことをずっと考えていました。
毎年、年末に同期が集まるユース会をやっていたんですが、この2年、コロナで開催できていなかったのが悔やまれます。先のことなんて、どうなるか分からないですよね。『また今度でいいや』と思っていると、後悔することも多い。最後、もう一回会いたかったです。もうちょっと、話したかった。
コミュニケーション能力も高いし、人と人とのつながりをすごく大事にしていました。だから、自分にもこまめに連絡してくれて…。でも、メッセージのやりとりだけになってしまって、直接言葉をかわせていないことに悔いがあります。
みんなに慕われるし、刺激をもらえる存在でした。熱量がすごくある、男っぽい…“ザ・男”です。
きっと、工藤が最後の瞬間に考えたことって、家族のことだったと思うんです。子どもや嫁さんが不自由なく暮らせるのかとか…。だから、工藤が不安にならないような家族のサポートを、みんなで話し合いながらやっていきたいと考えています。
高校の同級生からも、たくさん連絡が入っています。みんな残念がっていました。でも、なぜだか、実感が湧きません。だって、早いですもんね。
工藤や自分たちは、中学から高校と、(吉田)達磨さんに本当にお世話になってきました。プロになってから、達磨さんに『サッカーで飯を言うな』と言われて。この言葉ってとても深くて。お金どうこうではなくて、それだけサッカーに夢中になれという意味です。自分の代では、工藤が一番サッカーで飯を食わなかったと思っています。プロでやっていくと、サッカーでお金を稼ぎたくなるものです。でも、工藤は海外でプレーしたい思いからカナダにいきました。きっと、お金のことを考えたら選べるクラブはたくさんあったと思います。安定を選ぶなら、レイソルでプレーし続けてよかったと思いますしね。そこから、紆余曲折ありながらオーストラリアに行きましたし、今年は宮崎。どんなクラブでも、どん欲にゴールを狙い続けていたのが工藤です。それが工藤の一番素晴らしいところで、工藤という人間が表れています。夢中にサッカーして、それに没頭していたのかなと感じますね。自分が掲げた目標を優先してやってきたという印象です。
自分たちも30歳を越えて、いつプロサッカー選手を終えるわからない状況です。やりたくても、契約がなかったらできませんからね。後悔のないように、一日一日、夢中に、サッカーで飯を食わないようにやっていくことを考えていきます。
いま、自分が家を空けて練習に行くのもちょっと怖いくらいで。子どもや嫁さんに、次いつ会えるのかなあって。小学校に行く子どもを抱きしめて、いまを大切にしないといという思いでいます。
オレは大変ではないけど、周りの方で、近い人でいなくなるのは初めてのこと。先週は、気づいたら涙が流れていました」
■島川 俊郎(鳥栖)
近い存在だからこそ、彼のすごさに気づけていなかった
「18日、(酒井、比嘉厚平、牧内慶太とともに)宮崎まで行きました。とにかく、近くまで行きたかったんです。そこで(意識が戻る)可能性について聞いていたので、ほかの方よりも整理ができて、心の準備はできていたのかもしれません。もう仕方ないのかな、でもウソだよな、という感情で…。いまでも、この事実をよく理解できていないのかもしれません。たくさん泣きました。
千葉県選抜に選ばれた小6が、工藤との出会いでした。ジュニアユースからは6年間、チームメートです。遠征でスペインにも行きましたし、高校ではクラスも一緒。(仙石)廉が“ザ・キャプテン”という感じなら、工藤は常に会話の中心にいる、自分たちの代のリーダー的な存在でした。プロに入ってからは、工藤と酒井が結果を出して、引っ張ってくれました。
好青年という印象があると思うんですが、自分は、ふざけていた工藤の姿が思い浮かぶんです。一緒によくふざけ合っていたので。コロナでみんなと会えなくなったとき、Zoomで牧内、比嘉、それと工藤とつないで話したこともありました。そのとき、なぜか工藤が『知り合いに送ってもらったんだ』という鯛をさばいていて…。あれはなんだったんでしょう。やっぱりふざけていたのかな…。
亡くなってから思うんですが、やっぱり工藤はすごい男だったんだなと。近い存在だから気づけていなかったのかもしれません。(13年の)ルヴァンカップ決勝での映像を見て、あらためて気付かされました。みんな、もう一生、工藤のことを忘れられないですよね…。
所属チームがないときも、工藤は出身の日体大柏高で練習を続けていました。それからチームが見つかって、今年は宮崎でも試合に出ていました。彼を見て、自分も、やめなかったら、やり続けていたら何かがあると思ってやってきました。だからこそ、工藤には頑張ってほしいと思っていました。だから、自分もやめられないですね。キツいなんて言っていられません」
■茨田 陽生(湘南)
また、一緒にサッカーしたかった
「リリースが出たときに、ICUにいるということを知りました。快復を信じていましたし、まさかそこまで重度なものとは考えていませんでした。そのあと、意識が戻らないと聞いて…。いまも信じられないですし、信じたくないという思いでいます。また、一緒にサッカーをやりたかったです。
小学校のときから、1歳上の学年のチームでやらせてもらうことが多くて、その中でも工藤くんは気を遣って輪の中に入れてくれる行動をしてくれました。常にチームの中心にいる選手が、そうやって声をかけてくれたことがありがたがったですし、きっと、どこにいても工藤くんはそんな存在だったんだと思います。
自分がトップに昇格したとき、寮が同部屋でした。まだ免許をもっていなくて、朝の時間に練習場へ行くとき、時間を合わせて『今日も(一緒に行って)いいっすか?』と。朝ってみんなつらいと思うんですけど、いつも工藤くんはいつも『いいよ!』と車に乗せてくれたことを思い出します。
工藤くんなら、オレのことを気にして、『サッカーに集中してよ』と声をかけてくれると思います。残り2試合、まずは全力でプレーする。それが自分ができることだと思っています」
■川浪 吾郎(広島)
工藤くんは永遠のあこがれ
「(育成年代から一緒だった1歳上の)工藤くんは、自分にとって、柏の兄貴で、永遠のあこがれ。自分にいろいろなことを教えてくれました。くじけそうなとき、あの人の背中を見たら頑張れました。やっぱり、工藤くんといったらプロファーストゴールを思い出します。努力が全部報われるわけではないというのはその時も分かっていたけど、努力をしなければ何も変わらないということをあのゴールは教えてくれました。だから、とりあえずやるんです。
自分だって、ルヴァンカップ決勝の緑のピッチに立って、優勝の瞬間を迎えたかったです。でも、あの人の姿勢を見て、それがかなわないならば自分にやれることがあるということを工藤くんからは教わりました。佐々木翔くんが、『オマエが来て、このチームは変わったんだよ』と言ってくれたんです。それは、優勝した高揚感から言ってくれたのかもしれません。でも、その姿勢が大事だって教わったのは工藤くんの姿を見たから。(広島のスキッべ)監督からも、『チームへの関わりが素晴らしい』と言ってもらえました。
自分がいまやっていることは、はたから見たら恥ずかしいことかもしれません。でも、J1でやってきたスーパースターがそれをやっていましたからね。ルヴァンカップ優勝は、自分が13年やって初めて報われた結果なのかもしれませんね。少しでも、意味のあることができました。あの人と出会って、人としていろいろなことを学びました。優勝して、また同じ光景を見たいってなるもんなんだなっていうことも、今回分かりました。
(劇的にルヴァンカップ優勝を果たして?)神様のことはあまり信じたくないし、美談にしてはいけないことだと思います。でも、あの人のぶんまでやるぞと思っていたのは事実ですし、自分にはそれしかできないですから。まだ実感が沸きません。でも、優勝できた直後にはいろいろな感情があふれすぎましたね。本当に、勝ててよかったです。(工藤に起きたことは)明日、自分に起きることかもしれない。自分の無力さを思いましたけど、サッカーをやっているうちはあの人のぶんまでやらなくてはいけないと思います。きっと見守ってくれていると思うので」
■田中 順也(岐阜)
言葉で表現するのは難しい
「キャリアの最初の5年間を一緒に組んで、僕のパスを何本もゴールにつなげてくれました。彼のおかげでレイソルが一時代を築き、(国内3冠という)すべてのタイトルが取れたと思います。本当に言葉で表現するのは難しいので、彼のぶんも今日(22日の沼津戦)はしっかりとしたプレーをしなきゃという思いでピッチに入りましたし、(これからも)彼のぶんまで頑張りたいと思います」
■城福 浩監督(東京V)
その姿勢は多くの選手に影響を与えた
「U-17代表監督を務めていたときに、何度もトレーニングキャンプに呼びました。それに(監督を務めた)広島で再び出会った。1年目は自分の至らなさで優勝できませんでしたが、2位になり、そこに彼は大きく貢献してくれました。与えられた時間にすべて出し切る選手でした。おそらく、自分が思い描いたプレー時間を与えられない試合もあったと思いますが、そういう中で彼が何をやったかと言えば、グラウンドで自分に矢印を向けてのトレーニングです。これでもかというぐらい練習をしていて、その姿勢というのは多くの選手に影響を与えたと思います。
彼のサッカー人生は決してラクではなく平坦なものではなかったと思いますが、いろんな場所でチャレンジして彼なりにやり切ったと思ってくれていればいいなと思います。突然の終わりでしたが、それでも彼はやり切ったなと自分に対して言っているのではないかと思っています」
■石井 健太(宮崎)
J3優勝、J2昇格するまで…
「(工藤選手との思い出は?)壮人がまだ仮住まいで車もなかったとき、練習終わりに一緒に帰ったのが最初の思い出。その時、はじめて一緒に食事をした。壮人とすごした宮崎でのすべての時間が忘れられない。これからも、私の中でともに戦ってくれる壮人との人生も思い出になっていくと思う。壮人の願いでもあったJ3リーグを優勝して昇格をするまで、強い意志を持って戦いたい」
(BLOGOLA編集部)
2022/10/29 03:46